あかつきの峡谷 



離れていても空気の震えが伝わるほどの轟音を立てて、古い煉瓦を積んだ邸宅は崩れた。予めセットされた爆弾を遠隔操作で爆発したので周囲に人影は無い。昼間の太陽はその粉塵で暗く煙る。古い建物を倒壊させたように見せたそれは近所の住民をも避難させていた。しばらくは誰も近付けないだろう。
 いつまでも大音量で続く反響を、山本は両手で耳を覆い、遮音用のヘッドフォンをしながらもリボーンはしかめつらで耐えていた。光の届かない地下室の鉄の扉は上に建っていた邸宅に残されたシェルターでこれぐらいじゃびくともしないのだが、音だけは遮りようがない。特にリボーンは人並み外れた耳の良さを持っているだけにひっきりなしに続く高い周波数の反響音が山本以上に響いていた。頭の中を金属の破片が跳ね返り続けるような感覚に頭を抱える。
 急に温かいものに肩ごと包まれてビクつくが、それは山本がリボーンの音の反響を減らそうと覆うように抱いてきたと知る。
「退け」と言ったところでこの音の嵐の中では通じないだろうと、リボーンは山本のしたいようにさせて両腕で頭を深く抱え直す。半減するわけではないが、人間の体は音を吸収して、少しは軽減してくれる。山本がそれを理論的に知っているとは思えないから、ただ心のままに動いているだけだろう。だから始末に負えないんだとリボーンは独りごちて、ふと、口元を弛めた。

 「山本の?」
「そうだよ。今月に入ってもう十件を越したから数えるのを止めたんだけど、獄寺くんならカウントしていると思うよ」
 まだ平和だった頃。リボーンはドン・ボンゴレの執務室の窓際のカウチで惰眠を貪っていた。寝てる彼に構わず、入室してきた綱吉は「リボーン、聞いてよ」と話しかけてきた。ボルサリーノの鍔をちょいと上げて教え子の顔を見ると、心底呆れた表情で首を捻っていた。
「どうした?」
「山本の彼女候補がまた来たんだけど、当の山本には全く覚えがないという」
「山本の?」
と、冒頭に戻る。話題の的の山本がイタリアの地を踏んでそろそろ五年近くなるが、まともなイタリア語を習得せず未だ“ニュアンス”で生活を送っていた。綱吉は元より、リボーンも彼には甘く、日本と半々に過ごさせてきた経緯もあるが、トラブルを避ける能力だけは高いはずだ。
「曰く、愛の告白をされたからとかなんかそういうの。獄寺くんが我慢して状況を聞き出すと、大体がいつもの通り、ちょっとした親切とかだけど、なんでああももてるんだろうね。うらやましいよ、ほんとに」
「思ってもいねーくせに」
「まぁね。でも山本ってこっちの暮らしが少ないのにオレなんかよりずっとレディファーストだよね」
「俺の真似をしているんだろ?」
 真新しい話題に興味を半減させたリボーンは再びボルサリーノの陰に隠れて目を閉じる。綱吉も原因がわかった以上この話題を続けるつもりもなく、デスクに寄りかかっていくつかの書類をチェックしていく。ボンゴレリングの守護者の中ではクロームと同じぐらいにしか伸びなかった綱吉も、どうしてどうして日々のトラブルを乗り越えてボンゴレ10代目らしくあろうとしていたし、実際そうなりつつあった。
「こんにちわ。今、大丈夫ですか?」
 綱吉の携帯電話からワンプッシュで繋がる相手は数人しかいないが、彼の親しげな口調はリボーンの生徒の一人であるキャバッローネ10代目だろう。リボーンが叩き込んだイタリア語も華麗に操れるようになっていた。元はそんなに悪くないのだ。ただやる気がないだけで、死ぬ気になれるんだから素質はあった。そしてもう一人の、問題の生徒の山本にはイタリア語ではなく、剣の覚悟と立ち居振る舞いを教えた。剣の覚悟だって、元々山本は持っていた。それをつついて引っ張り出しただけのこと。リボーンが家庭教師たる所以はその教え方ではなく、生徒の素質を見抜くことにあった。生徒の中に眠っている才能や能力を見抜いて、一番確実で早い方法で開花させる。例え乱暴な方法であっても間違っていたことは無かったし、例え間違っていたとしてもそれは無いことにすればいいだけだった。
同じ教師根性のラル・ミルチも同じタイプだったが、彼女はあくまでも普通の教官レベルだった。
限界を超えることは無い。そんな彼女は昔、教え子がズタボロになって失神しているのを見下ろすリボーンに聞いたことがある。
『貴様は何故そこまでさせる』
『“信頼し合ってる”なんて、臭い言葉を吐かさせるなよ。俺はただ人間が好きなだけなんだ』
『はっ、嘘くさいな』
『はははっ。おまえのことも愛しているぜ、ラル・ミルチ』
『黙れ』
 はぐらかされた上に真っ正面から愛の告白を受けた彼女は氷すら更に凍らせそうな冷たい一瞥を寄越して踵を返した。その背中を、リボーンが微笑みながら見送ったことを本人は知らないままだ。
「小僧、ここにいたのか?」
 ノックの後に入ってきたのは話題の中心の山本武だった。
「ツナ、これ、獄寺から」
「ありがとう、山本」
 山本の声は弾けるような明るさを持っていた。太陽のように笑う綱吉とは違う陽の素質で、それはそれは頼りになる力強さもあったが、刀を手にした冷静さは彼の性質でもある雨の物だった。どこまでも冷静で冷酷で流れる水の如くしなやかだ。リボーンが性質の底を見抜くように、リングもまた人の本質を表に引きずり出す。リボーンが人を愛しているのは本当だ。等しく善人の如く愛しているが故に、シニカルになってしまうように、冷たい、冷酷、冷静と言われるリボーンの本質は晴れで究極のリカバリー機能を持つ。山本のややもすれば人を死に至らしめる沈静の炎とは真逆だ。山本と対峙したときに何度か受けたことのある、彼の炎は人を酔わせる力をも持っていた。ただ“沈静”させるのではなく、その炎に委ねることを快楽とするような暗い悦びを持っていた。だから、山本の雨の炎はバジルよりも強烈で力強かった。スクアーロのように苛烈な沈静は逆に反発させる力を引き出すし、バジルのゆっくりとした沈静は力が拮抗した場合は押し返されてしまう。長い友人であるコロネロの雨の炎は受けたことがない。アルコバレーノ同士が闘うことは基本的になかった。アルコバレーノというだけで、普通の炎とは違うのだが、基本は変わらないだろう。
 温かい手がリボーンの肩に触れる。山本は体内に太陽を飼っているかのように体温すら高かった。
「小僧、暇なら相手してくれよ。最近、刀持ってないんだ」
「暇で結構じゃないか。なぁ10代目」
「そうだね。二人にマジにやられると、また請求書の山になってしまうしね」
 綱吉は、獄寺の作った書類にサラサラとサインをして山本にひとつひとつ返していく。綱吉の手前で処理できる案件は獄寺と彼の所属するチームが一手に引き受けていた。明晰な頭脳を持っていた獄寺は物事を複雑に考える上に視野が狭かったが、綱吉を通したリボーンによって広い視野と考え方ができるようになっていた。獄寺もまた複雑な気質は五種類の波動に、そして彼の根底に流れる「綱吉のために」というシンプルな気持ちは、強力なディフェンス能力を持った嵐の属性に現れていた。嵐のリングの意味はは“常に攻撃の核となり、休むことのない怒濤の嵐”と銘打たれているが、攻撃が最大の防御という言葉の通り、獄寺は綱吉の直前で陣を守る布陣が一番向いていた。
「ハハハッ」
 何のための資料かわからないまま受け取って、獄寺へと運ぶ山本にそういえば、と綱吉が顔を上げる。
「さっきの女の人、どうしたの?」
「お茶飲んで引き取ってもらったよ」
「獄寺君怒ってた?」
「いや、自分でケリつけろって裏のキッチンに追い出された」
 山本の言う“裏のキッチン”は、ボンゴレ総本部の山本の居場所の一つで、確かに台所機能も持っているのだが、山本率いる実働隊のたまり場でもあった。頭より腕っぷしという連中をまとめているのが雨のボンゴレリングの守護者の山本で、その裏表のない開けっぴろげな性格が荒くれ達の信奉を集めていた。何万もの言葉よりも、刀の一降りで信頼を得た山本の裏のキッチンには一癖も二癖もあるヤクザ者達が昼日中から集まっていた。酒如きでは腕が鈍らない強者は酒を呑み、葉巻をくゆらし、左右に女をはべらして遊戯に興じている。そんな中に、マフィアのマの字も知らない一般女性が放り込まれたらたまったものじゃないだろう。いくら山本が輝く笑顔でエスコートをしたところで、後腐れ無く帰っていく。山本も完全にわかっているからこそ、楽しんでいる節があった。
「いつか刺されないようにね」
「誓っても誘ってないからな」
「うん、わかってる。だから始末に負えないんじゃないかなぁ。山本だからね」
 中学生の時分よりシャープになった頬のラインを緩ませて綱吉は笑った。
 山本の部下の事達は綱吉だってよく知ってる。
 全員、イタリアン・マフィアらしく女性に対して礼儀は尽くすし、乱暴者ではないのだが、切り傷だらけの顔や愛想笑いができない彼らの外見が怖すぎるだけで損をしていることも。いざという時には山本と一緒にボンゴレを守ってくれる忠義者なのだ。いくら女性を片手に抱いても人前で淫らなことはしないし、その彼女達だって同じように武器を手にすれば、リングが無くったって相当強い。
「はい、おしまい。獄寺君にいつもありがとう。って伝えておいてくれる?」
「あぁ、でもまぁ来てるし」
 山本がドアへと振り返ると、ノックしながら獄寺が顔を覗かせるた。
「10代目。お茶をお持ちしました」
 綱吉がチラと卓上の腕時計を見ると十五時だった。こうでもしないと、顔を合わさない日が続くため三人でなんとなく決めたルールだった。獄寺より先に届いたエスプレッソの香りにリボーンは身を起こす。獄寺は慎重にカップが並ぶ銀のトレイをソファセットのテーブルの上に置く。各自、カップを取り綱吉はミルクで渦をつくり、山本はとびきり冷えた牛乳の入ったグラスを取る。小さなエスプレッソカップにリボーンが手を伸ばして、獄寺は自分のコーヒーカップを手にする。
「帰ったのか?」
「おう」
 一気飲みして空けたグラスをトレイに戻した山本は、頷きながらミルクの残滓を手の甲で拭う。
「獄寺、変わったことはねぇか?」
 こちらも馥郁とした香りを楽しんでエスプレッソを空けたリボーンがソーサーごとトレイに戻した。
「リング関係が結構キナ臭くなっていますね。あちこちのファミリーから報告が上がってきます。まだ小競り合い程度ですが」
「ボンゴレリング、どうしようかなぁ」
 綱吉は左手にコーヒーカップを持ちながら、右手を握りしめてリングをみつめる。獄寺の山本の指にもある歴史を感じさせる重々しいボンゴレリングはそれぞれの顔を歪めて反射する。
「ま、もうちょっと考えようか」
 それが全員揃った最後のティータイムだった。


◆◆◆


ザ・リッツカールトン・ホテルのドアマンは奇妙な二人組を中に通すかどうか迷っていた。旧正月前とはいえ年が改まったばかりの朝に血まみれの男二人組はどう見ても歓迎すべき客では無かった。
「大丈夫だ。タイレーンには連絡済だ」
スーツ姿の男は総支配人の愛称を軽々と口にした。であれば、速やかに通さねばならないがしかし。逡巡する彼を助けるように、当の総支配人が富を象徴する立派な腹をゆすりながら現れた。
「ムッシュ!聞いていたより酷い格好ですな。新年から映画の撮影ですか?」
豪快に笑いながらリボーンの姿に構わず抱擁しようとするから、リボーンが止めた。
「裏口でいいぞ」
「ご配慮痛み入ります。どうぞ、こちらへ」
リボーンはドアマンへ新年おめでとうと倍以上のチップを握らせる。
「あ、いえ、これは」
タイレーンが人差し指をたててドアマンの言葉を遮る。

バスルームは蘭の香りで溢れていた。山本は先に乳白色の湯の中で体を伸ばし、その水面では紫めいた大きな花びらの蘭花がいくつも浮いていた。
リボーンも山本の反対側に入り、冷え切った体をゆっくりと温める。
ふと、自分の身体の横にある山本のたくましい足首を掴んで掲げた。
足裏は細かい疵だらけで、つい、と口づけをする。
「ん、」
痛みとこそばゆさで山本は足を引く。が、リボーンが許すわけなく、舌先で舐め上げる。
「ちょ、小僧、くすぐったい」
フフと笑いながら嫌がらせのように山本の足の指に丹念に舌を這わせて柔らかい土踏まずを舐めた。
「…ちょっと、あ、…やばいって…」
「勃ってきたか?」
「な!もうちょっと、こう、さぁ」
「今更だ」
見せつけるようにくるぶしを丸く舐めると山本は明らかに感じたように体を震わせた。バスタブの縁に頭を載せてのけぞる。リボーンは足首を自分へと引いて山本を湯の中に引き込む。
「油断するな」
ぶくぶくと沈む山本が浮かび上がってきて、恨めしげに睨むがそんな視線もリボーンにとっては心地よくて目にかかる前髪を両手で後ろになでつけて、引き寄せてキスをした。からかうためでも癒すためでもない愛情の伝えるくちづけは山本を酩酊させる。唇が重なって熱い舌がすべりこんできて、絡み合う。くちゅと濡れた音で伏せていた目を上げるとリボーンが自分をじっと見ていた。
「いつもそうなのか?」
山本はキスをしたまま尋ねる。
「どんな顔をしているか興味がある」
「それ嫌われない?」
「は?」
「小僧はさ、自信があるかもだけどさ、やっぱそういうのは日本人には恥ずかしいと思うのな」
急に何を言い出すのか、リボーンは興味深く山本の意見を拝聴することにした。
「キスってさ、手を繋ぐのと同じぐらいこうドキドキするものだと思うんだけど、それを小僧だけ堂々としてるってイタリア人だからかもしんないけど、日本人相手だとドン引きされると思うぜ。もしかして今までそういうことなかった?気付かなかっただけとかない?いや、小僧が間違うとは思っていないけどさ」
「武。おまえ、緊張してるのか?」
リボーンに見つめられて山本は一気に頬を上気させる。
「しないわけ、ない」
「天国見せてやるぞ」
「小僧はどのぐらい経験あんだよ」
「おまえは今まで飲んだミルクの量を言えるのか?」
「な…」
「大丈夫だ。俺はセーフセックス主義だ」
「リボーン!!」
こんなに大人のナリをして中身がなんでこうなんだ、とリボーンも流石に驚いた。
「痛い思いはさせないぜ」
調子にのって悪い男の貌で囁くと山本が信じられない!とばかりに呆けた顔をみせるからリボーンはつい腹を抱えて爆笑した。人を斬った男が、同性とのセックスにここまで狼狽えるなんて。山本は先に上がる!と出ていくから「自分でヤルなよ」と釘を刺すと返事もせずにバスタブのガラスドアを閉めた。楽しい時間になりそうだと、リボーンは浮き立つ心のまま、スポンジに含ませたシャワージェルを盛大に泡立てた。